今日のひとこと

2016年11月21日 「無辺光」(辺見〈自分の見解に固執する〉を破る光)

ある人が「私なんて上座に座る身分じゃない」と謙遜したのを聞いて、お坊さんがこう返した「ではあの端っこの席へどうぞ」と、そうしたらムッとしたそうです。自分は上でも無ければ下でも無いと、辺(ものさし、範囲、端っこ)を決めて、自分の位置を推し量っているのです。

 

仏の教えでは、辺(隅っこ)が無い「無辺」の世界を願われています。隅っこがないということは、全ての存在が主であって、全ての存在が中心であるということです。憬興(きょうごう)師いわく「縁として照らさざるもののなきがゆえに」と、全てのもの(こと)が仏縁と言い得る生活が、教えに照らされることで開かれていくのです。しかしそういったいわゆる「もうひとつ世界」を観じて、それを自分の願いと決定していかねば、社会的な「私」という、ひとつのものさし(世界)で、この世の中を生き抜いていかねばなりません。

 

辺を決めるのは私たちに身に付いた考え方。皆、凡夫としての歩みの中でさえ、何を願うのかが問われているように思います。

 

補足:「無量光明土」と言われる阿弥陀仏の浄土。その光の、はたらきのひとつ。偏見とは違います。上座、下座など決めるのは有辺。

2016年04月26日 念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり

『歎異抄』第2条より

 

2ヶ月以上もかけ関東から大変な旅を重ねて訪ね来て、お念仏の意義を尋ねた門弟に対し、その苦労をねぎらうこともなく、親鸞聖人は「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」と、こうおっしゃいます。

 

このことは、親鸞聖人自身の信仰の歩みを表明しています。親鸞聖人の息子:善鸞によってもたらされた、お念仏の別義によって、門弟たちは惑わされたと言われていますが、端的にこの騒動を表すのであれば、「一人ひとりの歩みは出来ているのか?」ということを問われているのだと思います。

 

更に「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と、お念仏に生きた証となる法然上人を敬い、慕う構図が描かれています。

 

念仏をすれば救われるのか、何回すれば良いのか、本当にこれだけで良いのかと思議するのではなく、不思議によって助け遂げよという他力の教えがそこに感じられる、そんな『歎異抄』の条になっています。

 

2015年10月23日 極楽は 十万億土と説くなれど 近道すれば 南無のひと声

蓮如上人と親交が深かった「トンチの一休さん」(一休禅師)とのやりとり。


『仏説阿弥陀経』に「従是西方過十万億仏土」と説かれているのを見た一休さんが、「極楽は、十万億土と説くならば、足腰立たぬ、婆は行けまじ」と詠んだのに対し


蓮如上人は「極楽は、十万億土と説くなれど、近道すれば、南無のひと声」と返したという。


高僧2人が仏法を活き活きと学び、お互いの関係を認め合っている姿が浮かび上がる。


またこの他にも2人の逸話が多く残されている。仏法を学ぶ時は師に出遇うことと同じく大事とされるのが、朋(とも)の存在である。宗派の垣根を超えた蓮如上人と一休禅師の関係は、まさに旧知の仲。その朋に出遇うか出遇わないかも、縁次第なのです。もしかしたら、一番面倒くさいと思っている相手が、一番の理解者となることがあるかもしれません。すべてが自己を知る手立てとして、また浄土の教えを知る方便として語りかけているのかもしれません。

2015年05月30日 結婚される方々へ〜ふと立ち止まれる言葉〜

『祝婚歌』 吉野弘


二人が睦まじくいるためには 愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは 長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと うそぶいているほうがいい

二人のうちどちらかが ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても 非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがいい

立派でありたいとか 正しくありたいとかいう
無理な緊張には色目を使わず
ゆったりゆたかに 光を浴びているほうがいい


健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか 黙っていても
二人にはわかるのであってほしい

2014年11月28日 いま、いのちがあなたを生きている。

先日の行事での表白を添付して<今日のひとこと>として掲載します。


本日ここに、阿弥陀如来のご尊前に、有縁同朋あい寄り集い、僧伽が生まれました。

 

いま、いのちがあなたを生きている。

 

宗祖親鸞聖人、750回御遠忌が過ぎ、我々は新たなテーマをもって、いのちとは何か、生きるとは何か、を考える機縁をたまわりました。親鸞聖人は一人(いちにん)の誕生を望まれ、一人の誕生こそ大いなる、よろこびとなるのだと仰いました。

一人とはなにか。

 

今から3年半ほど前、東日本大震災が起こりました。当たり前と思っていた日常が、当たり前の上にはなかったのだと痛感したできごとでありました。それ以降、終活、エンディングノートといった言葉が広がりを見せているように見えます。

 

いよいよ人は、死に方をも自分のものとしなければすまなくなり、いまだ自力の範囲をでることが適いません。生きているということは、善いことも、悪いこともし、沢山の迷惑もかけてきた、それら全てを引き受けることに他なりません。我々は、他力によって生まれ、縁によってあるいのちを生きています。いのちとは生のみではなく死もまたいのち。切り離すことができないいのちをどう受け止めて今を生き、娑婆の縁が尽き、いのち終わる時、どう思えるのか。

 

あなたという自我を越えて、いのちは願いをもって生きようとしています。

 

この混沌とした現代社会という濁世において、だからこそ、救われなければならない一人の衆生として、諸仏から呼びかけられ、惑うなと問いかけられているように思います。

 

かなしきかなや道俗の、良日吉日えらばしめ、天神地祗をあがめつつ、卜占祭祀をつとめとす。と、親鸞聖人は人の惑うこころを悲しんでおられます。

 

釈尊は死の際に、人に依らず、法に依れと語られました。縁によって生まれた、尊く、そして替わることのできないいのち、そのいのちの願いを人に託すのではなく、この時、この場、この私、一人が全うすることが確かなる応えであり、人生の歩み、教えとなり、行となり、信となり、証となるのだと。

 

2014年11月24日
忠綱寺 釋尚康  
 敬って白す

2014年06月07日 「苦」が在るから「楽」を感じれるのである

親鸞聖人は、『歎異抄』の中で「いずれの行もおよびがたき身なれば とても地獄は一定すみかぞかし」と門弟に自身の身の事実をお話になった。
私たちは、楽しいこと、楽なことを求めて世の中を便利にし、効率を求め、負なるものを排除していこうとしてきたが、いざ「楽」なことばかりが世に萬栄すると、それが「当たり前」になっていく。当たり前の世界には「飽き」が生じ、また「楽」だったものを排除し、風化させていくのだ。
実は、私たちが立つべき大地は「苦」の世界である。生老病死、四苦と呼ばれるものの中で、初めて味わったのは「生まれ(る)」という苦しみ、その最初の出発点に立ち、「苦」の謂れを見つめながら、「楽」と「苦」を交互に繰り返すのである。それでも不安定な私たちこそ「人」として、「凡夫よ」と如来より呼びかけられ、悲しみをもって見つめてくださっているのである。恐れず「苦」の大地をいく御同朋と共に歩みを進めて欲しい。
2014年03月03日 タイ・タラ・ブリは往生のさまたげになる

〇〇したい、〇〇だったら、〇〇のふり。
近い未来にはこうしたい、ああしたい。過去、もしあの時こうだったら。今に至っては知ったかぶりをして等身大になれない。
みんな、はじめての「今」を生きているものとして問いかけられていることは、今を、この身のままいただくことではないでしょうか。
期限が決まっているからの「今」であり、時間は後には戻れない、誰かのふりをして責任を投げ出すこともできない。
無始以来から続く大いなる「いのち」の流れに、私の「今」を感じることができるのであれば、死は「無」ではなく、大いなる「いのち」に還っていく一種の希望になるのではないだろうか。自分に嘘をつかず、ありのままの己を垣間見た後、そこに絶対の安心があるのだと感じずにはおれないのである。
2013年12月24日 『人は法を求めるに止まって 法に生きることを忘れている』

関係性の劣化が、個人の劣化を招いていると思われる事例が多くみられるようになった。人は一人では生きることができないにも関わらず、関係を断たれ孤立感⇒地獄を味わう人。自分の執着を最優先して、人を排除していく人。

私たちは何かを求めて生きているが、何か求めれているということを忘れて生きている。それは請求の法と言われるように、いつだって私から何か(真理なるもの)にお願いをするばかり。

阿弥陀如来より私に向かって願われているのは、真実信心の法を拠りどころとして「真に生きる」ということ。それは、誰も選ばず、嫌わず、見捨てずという浄土の願いでもある。

不安定な私たちの心は、世間の基準で私と他者を区別し、優越感を覚える。その事は、周囲に地獄や修羅の場を作るばかりである。悲しんでいる声に気づかない限り、関係性は開かれてこない。

本当に願われている「真に生きよ」という阿弥陀如来の声を聞き、共にという関係において個人が開かれてくるのだと思われる。

2013年06月20日 人間は一生を通して誰になるものではない、自分になるのだ

一時、自分探しなんて言葉が流行った。じゃぁ自分って何だろう?
誰かに探してもらう?マニュアル本に書いてある?朝の占いに示してもらう?
急がなくても、誰かに言われなくも、だんだん解ってくるのではないだろうか。

苦しみの始まりは、この世に生まれ出でたからとも言われている。生まれたか
らには自分の苦しみを自分で抱えて、進まなければならない。

その苦しみを私が取り除いてあげようと言われても、そこに何がある。苦しみの
種は生きている限り残るのだ。人間の欲望は雑草と同じ。それならその種の種
類を見極めてうまく付き合った方が、自分と向き合い、自分を天下一品の存在
と認めてあげることができる。

忘れていけないことの一つは、この世において、あなたと同じ人は誰ひとりとし
ていないこと。命の秤は、生きとし生きるものすべてにおいて平等に与えられて
いるということ。そのものさしは、社会のものさしでは測れないけれども、宗教的
視野も時に取り入れてみれば、360度クルッと回って、やっぱり自分+α(アルファ)
があるかも知れない。早急に答えを求めず、迷いながらもしっかりと歩んで行って
欲しいと願われいる。


<日めくり法語 一語一遇より>
2013年03月23日 悩みがなくなることが救いではない。共に悩めることが救いです。

<日めくり法語 一語一遇より>(東本願寺出版部)
お祓い、占い、風水など加持祈祷も慣習に持つ日本の国民性があります。しかし、自分の悩みや不安がすっぽり無くなることで得られる開放感だけに目を向けてしまうのでは、それは自己の満足にしかなりません。悩み・不安に垣根なく誠の気持ちで向き合ってくれた朋の存在、自分本位な我が心を超えて、いのち自身が生きづいていることへの感謝、その悩みを受け入れることができたという母体(他力の心)を忘れないようにしたいものです。その気持ちに気づいたのであれば、他者へ手を差し伸べることも自然と出来ると思うのです。
2012年03月14日 見えない世界が、見える世界を成り立たせている。

この言葉だけ見ると、ただ単に「精神世界」の話かと誤解されることもあると思いますが、そういった意味合いとは違い、「おかげさま」という言葉に代表されるような、日常生活の中で「忘れて」しまっている沢山の感謝のことを指します。「支え」られ、いろんな「絆」や「縁」の中で生きている私たちの実態を見えなくしてしまっている元は、「自分自身」の執着心であったり、三毒、無明(煩悩)の所為と言えるでしょう。また人と比べ、劣等感や優越感にかられ、情のままに流されてしまう。そういった時は、自身の立っている場所や、自分を成り立たせている原点、自身がこれまで歩んできた環境を立ち止まって考えてみましょう。自身で曇らせてしまっている眼が、一瞬の光で晴れる教えとの出会いが一度でもあれば、また迷った時には思い出し、そこから新しい一歩が歩める深呼吸ができるのではと思います。

2011年11月18日 答えの世界には自由がない、問いの世界に自由がある

<法語カレンダーより>

この言葉から伺い知ることができることは、私達は常に「答え」に立ってしまい、縛られてしまうということです。教えを聞き、学問を習得すればする程、自己をより大きく見せようとする。仏教でいう自己とは「ありのままの姿」、人間存在という意味。身に付けた知識・教養で他者と比較し、「答え」を持って切り捨てていく姿を、親鸞聖人は「愚か」と語っております。どんな環境であろうとも、「答え」に立つのではなく、「問いの世界」に立つところに「心」の自由が見出されていく。そのことで、皆、仏の心を持つ御同行としての歩みが始められる、「転換」に繋がるのではないでしょうか。

2011年03月21日 つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのある

『歎異抄』より

我が弟子、人の弟子という相論より、念仏しないものは弟子にせず、するものは弟子と言い、如来より賜りたる信心や縁すらも我が物として捉えてしまうといった、というお話から学ぶことの一つとして・・・。

離れていく縁は、縁起が悪いなどと言い、ご縁がなかったと切り捨て、良いご縁だけを大事にしてしまいますが、それもすべて自然のことであり「離れるというご縁」があったということ。そういう縁起の世界におかれている私たちに共通することは、『同朋(どうぼう)』であるということ。『同朋』とは、年・容姿・貧富・学力等々、各々違えども、同じくお念仏の世界に生まれたい、「真に生きたい」という「信」の心は、同じということではないでしょうか。

2010年12月08日 地中蓮華、大如車輪。青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光、微妙香潔。舎利弗、極楽国土、成就如是、功徳荘厳

浄土に咲く蓮の花は車輪の様に大きく、青い蓮華は青い色のまま青く光り輝いて青い陰影を帯び、黄色い蓮華は黄色に光輝いて黄の陰影を帯び、赤い蓮華は赤色のまま赤く光って赤い陰影を帯び、白い蓮華は白く光り輝いて白い陰影を帯びている。このように様々な蓮華は、それぞれの色・輝き・陰影を帯びている。それらの華はいずれも麗しく、清らかな香りを放っている。シャーリープトラよ、かの仏国土とは、この様な仏国土特有のみごとな配置で荘厳されている世界なのだ(梵文和訳)。

 

私たちも浄土の教えを感じ、同様に、自分は自分のままの色で輝き、そして自分の色の陰をもっている。あの人も、この人も、あの人のままの色で輝き、あの人のままの陰をもっている、この人のままの色で輝き、この人のままの陰をもっている。そういう世界の転換が浄土の教えから伺い知ることができます。

2010年05月08日 身みずから これを当くるに 誰も代わる者なし

わたしたちは、喜び、哀しみ、欲望、理不尽のある世間にいやおう無く立たされています。さまざまな環境に置かれ、さまざまな体験、苦楽を通して一人ひとり生きています。このことは、誰にも代わってもらうことも、誰に置き換えることもしてはいけない、人ひとり分の「いのち」なのです。