セミは夏を知らない
夏が近づくとー蟪蛄春秋を知らず(けいこしゅんじゅうをしらず)ーという言葉を法話でよく聞きます。蟪蛄とはヒグラシのような夏セミを表しているそうです。

私たちは「四季」を知っているので「夏」という概念を持っていますが、セミそのものは生涯のほとんど(春・秋・冬)を土の中で過ごしている為、対象となる他の季節を知りません。夏という概念がそもそもない、ただ我々が夏と定義するその時期を、精一杯生きているのです。

一方、私たちはどうでしょうか?
私たちは夏を知っているので、春の陽気や、秋の涼しさを心地よいと思ったり。冬が来れば寒さを思い出して、早く暖かくなればなと願ったりもします。

夏過ぎて、冬の寒さ思い出すいう言葉があります。夏は涼しいところで、寒い時期は南国で過ごす人もいるそうです。かくいう私も都会のど真ん中ではエアコンなくして、夏を過ごすことが困難です。冬が寒いということを知っているから、そのことから我が身を退けようと必死になります。

そう考えると環境が変わるだけでも一喜一憂する我が身というものが見えてきます。私たちは知っているようで、ほんとうに知っているのかと思います。考えているようで、ほんとうについて考えているのかと思います。生きているようで、ほんとうに生きているのかと思います。

セミや鳥など空の生きもの、草花など大地の生きもの、魚など海の生きもの。私たちのような知能は持ち合わせていませんが、虫も鳥も大空のすべてを知って飛んでいるのではありません。草花も大地のすべてを知らない、魚も大海のすべて知っているわけではない、ただ飛び、ただ咲き、ただ漂うのです。

私たちは知っているようで、知らない。いや、知っているからこそ迷うのかと...結局のところ堂々巡りを繰り返す。

「信じる」という一点においても、邪信=よこしまな信(勘ぐり、ご利益信仰)、傍信=かたわらにおきながらの信(他のこともしながら片手間に)、雑信=まじりけのある信(疑い)と、心情、縁に応じて様々に変化をしながらあぁでもない、こうでもないと生きています。蟪蛄春秋を知らずに関連づけて言えば、光という概念を知るには、闇の存在を知っているから。死という概念を知っているのは、生まれたから。ならば、迷い・不安があるということは、その先に救いがあるのだと思います。

無自覚に生きるのか、迷いも不安も誰かに取り除いてもらって生きるのか、それとも自己として迷いながらそれでも生きるのか。

私たちに求められる、純粋さとは一体なんなのでしょうか。